2015/03/04

たまには映画




私はスパイ映画が好きなのですが、
それに気づいたのはごく最近のこと。

愛犬の散歩がなくなって、時間を
持て余してしまい、DVDをたくさん
見るようになりました。

一緒に歩いた道を一人で歩くのは
いろんなことが思い出されて
辛かったのです。

海外ドラマのシリーズものには
特に助けられました。

たくさん借りて、数日は時間を
気にすることなく過ごせたからです。

最初は「ふーん・・・」と観ていても、
シリーズが進むにつれて
登場人物の性格がだんだんと
深みを増してくると、
 「次はどうなるんだ~?!」
 「この二人の関係は??」
と気になってきます。

スパイ映画には冒険とロマンス、
友情と裏切りという盛り上げる
要素がたっぷり入っているからでしょうか。
シリアスな会話をウィットの効いたセリフで
切り返す場面も楽しみです。


最近はYou tubeで海外先行の映画も
予告編が見られるので楽しいですね。

私がいま、楽しみにしている映画はこれ↓




この俳優さんは「英国王のスピーチ」で感動しました。
そのあと、「私を愛した大統領」を見たおかげで、
英国と米国の歴史を勉強できました。


もう一つ楽しみなのはこれ↓



ん~、どこかで見たような顔・・・と
思っていたら、スーパーマンの人でした。
1960年代が舞台なので、私としては
ファッションも素敵だなあ、と予告を見て
楽しみにしています。


スパイ映画の鉄板といえば、こちら↓



父の世代から人気がつづく007シリーズ。
実は彼が演じる007の3作を見たのもDVDでした。

見てみると、ちゃんと前後の話が続いていたんだ、
と遅まきながら気づきました。

007はスパイ映画でもコメディ要素がないぶん、
新作メイキングを見るだけでドキドキです。

007はイアン・フレミングが書いた小説ですが、
彼のドラマがあるのをご存じですか?
英国BBCが制作したドラマです。

ドラマがどこまでがリアルかはわかりませんが、
原作者の経験が小説に大いに反映されていると
感じました。

ドラマはこちら↓




同じように、シャーロック・ホームズのDVDにはまり、
原作者のコナン・ドイルを描いたDVDも見ました。

「ドクター・ベル&ミスター・ドイル」というタイトルで
BBCが制作したドラマシリーズです。

彼が医学部時代に出会ったドクター・ベル教授が
シャーロックのモデルだと知りました。

同時に、コナン・ドイルはとてもスピリチュアルな人で
40年間もスピリットについて学んでいたことも知りました。

英語になりますが、コナン・ドイル本人が
インタビューで語っています。
最初に愛犬と一緒に出てくるところも好きです。




ホームズの相棒、ワトソン医師を演じていた
エドワード・ハードウィクに似ていませんか?
不思議だな~・・・


映画館に映画を見に行ったのは
いつが最後だったかな。
暖かくなってきたし、
今度ひさしぶりに行ってみようかな。




2015/03/03

春分の日 瞑想のお誘い




今日は私が所属している
(社)BHSプラクティショナー日本協会の
お知らせをさせていただきます。

3月21日(土)春分の日、午前10時から15分間、瞑想します。 
ご都合の良い方はその時その場で、ご一緒しましょう。 
会場に集まるのではなく、あなたがその時いる場所で だいじょうぶです。

私は瞑想が大好きです。
困ったとき、自信をなくしているとき、答えがほしいとき、
必ずメッセージを受け取ります。

それはヴィジョン(映像)であったり、
声であったり、文字であったりといろいろです。
まるでショートムービーを見ているかのような時もあります。

春分の日は昼と夜の時間が同じになるので、 
バランスの良いエネルギーであると同時に、
翌日からはどんどん昼間が長くなる「陽」の 時間が長くなります。 

これから活発に活動していく前に、今いちど、

 ・本当に自分がやりたいことは何か
 ・そのために自分は何を優先すべきなのか
 ・優先するために今、自分にできることは何か

といったことを見直して、参加される皆さんの
夢の現実化を加速させていく瞑想にしたいと思います。 

あなたが何かに迷っている場合は、
「どちらの道が自分の神聖な目的へ繋がるのか」 
にフォーカスして瞑想すると良いかもしれません。
夢の現実化をより早めてくれる決断に従えば、 
楽に自然に夢がかなうことでしょう。 

また、あなたが瞑想で受け取った
メッセージや言葉などがあれば、
みんなでシェアしませんか? 

twitterでハッシュタグ(#)をつけて、  
 #BHSPJA  
 #春分の日瞑想  
 #メッセージシェア  
 #シェアイズラブ 
で教えてください。 

あなたに届いたメッセージであっても、
それは誰かの 心に響いたり、覚醒したり、
問題が解決したりする きっかけになるかもしれません。 

みなさんのシェアが誰かに愛を届けます。 
メッセージは後日、BHSP日本協会のブログ
 (http://bhspja.blogspot.jp/) でシェアさせていただきますね。 

それでは、3月21日にみなさんと瞑想で繋がれることを
楽しみにしています。 


 私のtwitterアカウント: kumienakamura







2015/02/28

見送るたびに




庭に居ついている野良猫の兄弟。
3匹はオスで、1匹はメス。

メスは食べ物をめぐっての陣地争いがあり、
大人のメスが子供のメスを追い払ってしまいます。
けど、お兄ちゃんたちがいるので、
1日1回は顔を見せてくれます。

3匹はもうすぐ1年経つというのに、
家の中で飼っているオス猫の真次郎の
半分くらいの大きさしかありません。

特に、小さいのは末っ子らしきオス猫。
まるで4か月くらいの大きさしかありません。

・・・ありませんでした。

実は前回記事を書いたフィオレを
見送った数日後に、末っ子を看取りました。

風邪をこじらせて、治らないまま、
逝ってしまいました。

3回目とはいえ、命を見送るのに
慣れることはありません。

ただ、自分が少しずつ強くなっているような
気がします。

***********************

末っ子は、3兄弟の面倒をよく見てくれる
大人のオス猫から風邪をもらってしまいました。
やっぱり、体力がなかったのでしょうか。

猫の風邪は人間と違って、命とりです。
飼い猫はすぐに病院へ連れて行けば
助かりますが、それでも持っている体力に
よるところが大きいのです。

亡くなる4日前、ぐったりして、
家の裏に一人でいた末っ子を
見かねて家の中にいれました。

とにかく身体を温めました。

最初は少し食べたものの、すでに自力では
食べられなくなっており、水もあまり
飲みませんでした。

おしっこするたびに鳴いて、
タオルやトイレシートが汚れたことを
知らせてくれました。

几帳面ね。
気持ち悪いよねえ。

やがて、声が出なくなりました。
おかしいな、と思ってみてみると、
黄色いおしっこでお尻が
濡れていました。

ぬれティッシュできれいに
拭いてあげました。

亡くなる最期の日、なぜか外に
出たがりました。
兄弟がいるので、会いたいだろうと
思い、出してあげました。

不思議なことに、兄弟と妹、それに
母猫までそろって、ベランダで待っていました。

驚きました。
もう、長くないことがわかったのだろうか。。。
本当に不思議でした。

末っ子はフラフラで、やっとのことで歩き、
兄弟たちとあいさつしいました。

やがてフラフラ歩きだし、
兄弟が一緒についてきました。

家の裏手で水を飲みましたが、
帰りは一人であるけずに、小さく
「ニャ~」と鳴いて、私の足首に
すり寄りました。

そっと抱きかかえて、もう一度
兄弟たちとあいさつした後、
温かい家に入りました。

最期は夕飯の準備をしている間に
独りで逝ってしまいました。

多飲多尿になったので、心配していました。
苦しそうに口を開けて息をしていたっけ・・・。

何て呼ぼうかと思い、少し意識を集中してみると
「コロンボ」という名前が浮かびました。
白と黒トラキジ模様でした。

最期を看取れなかったのに、
以前と違って、自分を責めたり
罪悪感を感じたりはしませんでした。

きっと、自分は何も変えられない、ということを
学んだからでしょうか。

でも、私のエゴは「やっぱり残念」と感じていました。

きれいな箱に遺体を入れて、一晩一緒に過ごしました。
とは言っても、念のために寒い外に置きました。

翌朝月曜に、市の清掃担当の人に
取りに来てもらいました。

最期に箱のふたをあけて、もう一度、顔と身体を
優しくなでて、さよならの挨拶をしました。

ペットでも野良猫でも、
動物は法律上「もの」扱いなので
ゴミとして扱われます。

************************

見送った夜は、BHSP日本協会の仲間と
スカイプ・ミーティングでした。

話せるかなあ、とやや心配しながらも
話せなければキャンセルしよう、
と思っていました。

始まってみると、集まったほかの人たちも
なかなかグラウンディングできずにいました。

一人ひとりがいろんなことを抱えています。

私は完璧ではない自分を常に見せるように
してきました。

少なくとも、マロンが亡くなってからの
半年間はそうです。

そうすることで、彼らにも
人前で完璧を目指すことをやめてほしいと
思っているからです。

私たちは、同じ人間です。

命を助けることはできません。
病気を治すことも、
状態を変えることもできません。

それらはすべて、クライアントさんご本人だけが
なせることです。

ヒーラーが良い意味で謙虚でありつづけ、
自分が今、この瞬間にできることに
フォーカスすること。

出来ないからとあきらめないで、
それでも今自分に何ができるのかを
考えて実行するとき、
その行為は無償の愛から生まれます。

そして、相手を心から尊重して、
完全な信頼を相手に与えることになります。

マザーテレサの言葉にこういうのが
ありました。

「どれだけたくさんのことを成し遂げたかではなく、
どれだけ小さなことに心をこめて、実行したかが
大事なのです。」

まったく、その通りです。

たくさんのことを成し遂げるのではなく、
大きなことを成し遂げるのではなく、
目の前にある小さなことに集中する。

それを繰り返すうちに、やがて、
自分が想像さえしなかったものに
繋がっていくのだと思います。

命を見送るのは辛いけれど、それでも
やめるつもりはありません。

野良猫だって、最期くらいきれいにしてあげたい。
最期くらい、自分にも愛される価値があったんだと思ってほしい。
最期くらい、頼れる人間もいるんだ、と知ってほしい。
最期くらい、誰かと一緒に温かい場所にいてほしい。

私のエゴもありますが、
「準備が出来たら、いつでも逝きなさいね。」
と声をかけてあげたい。

マロン、私が看取る猫たちのこと、よろしくね。
道に迷わないように、迎えに来てあげて。

そちら側に、頼れるあなたが居てくれて、
良かった。








2015/02/20

一日だけの飼い主




実は、ここで先日書いた庭の野良猫が
17日に亡くなりました。
前日夜に、とても具合が悪そうなのを
見かねて、家の中に入れて看病しました。
1日だけの飼い主でした。


おしりと後ろ足がうんちにまみれていて、
ものすごく臭くて、ネチネチしたものが
体のあちこちにたくさんついていて、
抱え上げる時はゴム手袋をしました。


無理を承知で最初にシャワーで流しました。
嫌だったろうに、もう、自力では動けなかったので、
されるがままでした。


よく乾かしてあげたタオルに臭いが移って、
全部捨てました。


うちの中にいる4匹に
病気がうつらないようにとも考えました。


よく観察してみると、舌の中心の一部に
潰瘍が出来ていて、そこだけ
真っ赤になっていました。


ああ、だから食べるときに、あんなにこぼしていたんだ。
これは痛いよなあ。。。
けど、お腹すいてたんだよね。
食べないと、ほかの猫に負けちゃうもんなあ。


乾いた毛皮はフワフワでした。
ネチネチで細く固まったしっぽは
信じられないほど太く立派で、
きれいなシマシマ模様が入っていました。


生まれて初めて、洗ってもらったよなあ。
本当はこんなにフワフワの毛だったんだなあ。
ほーら、尻尾も立派になったよ。
。。。好きで、あんなショレショレにならないよなあ。


どうやら臭いのもとは、潰瘍のようでした。
すでに飲むことさえできなかったので、
ピペットで少しずつ、ささみスープをあげました。


その日のうちに亡くなるかな、と思っていましたが
一晩がんばりました。


けれど、少しずつ顔に死相がでてきて
(まばたきをしなくなり、遠くを見ているような目)
胃の中味を少しずつ戻すようになり
(すでに、水だけ)
何と言っても体が冷たくなってきました。


湯たんぽでお腹を温めて、
両手でかわるがわる後ろ足と前足を
温めました。


ここのところ、寒かったからなあ。
夜の間に、具合が悪くなっちゃったかな。
けど、この足が腫れてきて今日で3日目だよねえ。


たんこぶのような足をそおっと持ってみると、
何と、くぎであけたような深い穴が開いていました。
周りの皮膚が破けたようにペロンと
さがっていました。


どこでこんな怪我しちゃったんだ。
2~3日見なかった、あの時かな。
どうしてこんな目にあうんだろうなあ。
もう、十分大変なのに。。。


生まれて初めて人間と過ごす夜かな。
とにかく、この寒い夜を風のない家の中で
暖かく過ごせて良かった。


夜中、何度も苦しそうに鳴きました。
そのたびに声をかけて、足や身体をさすって
温めました。


ときどき、前足と後ろ足が走るように動いて、
どこかに行っているみたいでした。
ストレッチするように、何度か脚を
伸ばしたこともありました。


そろそろかな、と覚悟しました。
動物がなくなるときには、
こういう行動が見られるのを
マロンを看病したときに目にしていたからです。


朝が来たときには、うれしかったです。
時計は4時半を指していました。
・・・マロンは2時15分に亡くなったっけ。


やがて、曇りではありますが、
朝日で明るくなってきました。


「よくがんばったねえ、朝だよ。
おはよう。」
そう言うと、「ニャ~」と返事をしてくれました。


「朝ごはん作ろうねえ。
よくがんばったねえ。
明るくなってきたよ。」


そのうち、うちの4匹の猫たちも
台所の物音を聞きつけて、
ドタバタ始まりました。


ちょっと見てこよう、と思った時に
小さな声を聞いたような気がしました。


猫のほうを見ると、鳴きはしませんでしたが
何となく「行かないで」と言われた気がして
そばに近寄りました。


もし、部屋がめちゃくちゃになっていたら
後から片付ければいいことだ。
そう思いました。


そばについていると、
小さく苦しそうに息を吐き出しました。


しばらくすると、
前足だけがどこかへ歩いていくように
動き始めました。


でも、その足にもう、力はありませんでした。


その後、前足を3回縮みこませて、
伸ばして、と繰り返した後に
小さくハァ~、と息を吐いて、
逝きました。


「まだ(身体に)いるの?もう出たの?」


それまでは、そおっとお腹を触ると、
小さく小さく脈打っているのが
わかったのですが、
今度はわかりませんでした。


念のために、聴診器で3か所確認しましたが
無音でした。


よく朝まで頑張ったなあ。
・・・もしかしたら、もっと生きたかったのかな。


一日だけだったけど、
飼い猫になったね。
暖かい家と独りじゃないことを
経験できたね。


それに、どんなに臭くて、汚れていて、
病気でも、自分はまだ
愛される価値があったんだ、っていうことを
経験できたかな。


しょれしょれ、ありがとう。
最後に看病させてくれて、ありがとう。
・・・しょれしょれなんて名前、
嫌だよなあ。


少し意識をしていると
「フィオレ」という言葉が浮かびました。
イタリア語で花、という意味です。


女の子みたいな名前じゃないの、と
話しかけました。
オス猫だったからです。


でも、ちゃんと飼われていれば
花のように愛らしい猫だったのかも
しれません。





2015/02/15

愛の日に寄せて


昨日はバレンタインでしたね。私はInstagram(kumienakamura)をやっているのですが、そこでも多くのHappy Valentine!というメッセージを目にしました。海外にいる友人にとっては私の15日が彼らの14日だったりするので、2日間の間、Happy Valentine's Day!というメッセージを多く受け取り、心が温かくなりました。


今朝のことですが、私の家の庭にオスの野良猫がやってきました。毛は汚れて、体や足のあちこちで抜けてしまい、皮膚が見えています。この時期は寒いだろうなあ、と気になりました。


さらによく見ると、前足の一部がたんこぶのように大きく腫れて、痛みから3本足でゆっくりと歩いているのに気づきました。おまけに体全体がものすごく臭います。


けれど、この野良猫が教えてくれたことがあります。それは、どんなにひどい人生でも、その人(猫)には「生きる価値がある」ということです。


私はマロンを亡くしてから、自分を責め続けていた時期がありました。悪いことが良い人(動物)に起こる事実を経験しました。許せない自分をついに許せたのは、「こんな自分でも、まだ世の中に提供できるものがあって、それができる限り、まだ生きている価値がある」からだと気づいたからです。

それは自分自身に対する「信頼」を受け取れた日でした。自分は確かに生きる価値があることを「信用」できた日でした。庭の野良猫はそれを思い出させてくれます。


愛の日に寄せて、すべての生き物が愛される価値があると思えますように。
親切や真心、愛を受け取る価値が自分にはあるのだ、と思えますように。




2015/02/08

小さな存在

人間とは、何て小さな存在なんだろう。
愛する存在を助けることさえできない。

助けられない。
治せない。
変えることもできない。

なのに、なぜ誠心誠意、文字通り全力で
誰かを助けようとするのだろう。

ヒーラーは、クライアントを助けることなどできないのだ。
助けられない。
治せない。
変えることもできない。

なのに、なぜ誠心誠意、さらには期待さえ抱かずに
クライアントのために全力を尽くすのだろう。

ヒーラーとは、何てかけがえのない存在なのだろう。

何とか助けたい、などと思わずに、
例え相手が肉体を離れることを選んだとしても、
それが最善なのだと
相手のために喜べる存在。

それでも、人として、両極端な思いは同時に存在する。

甘いものと苦いもの。
白と黒。
自分を責める声とよくやったと褒める声。

これらの両方を認めることができるからこそ、
辛く悲しい別れを体験しながら、
今までお疲れ様、と相手を思いやる気持ちが
同時に存在する。

ヒーラーである前に、人間とは、
限りなく小さな存在で、
短い一生において大したことはできない。

それでも、その一生は無意味ではない。

私はマロンを救うことは出来なかったし、
変えることもできなかった。

けれど、その悲しみを細胞の一つ一つで体験すると
(良い意味で)自分が大した存在ではない、と
認めることができるようになった。

謙虚さを持ちながらも、決してあきらめない強さを
同時に持つことができるようになった。

相手が変わることを期待せず、
ただ自分が正しいと信じることを
ひたすらやり遂げる。

それができれば、短い一生でも
十分ではないか。








2014/12/18

もし会えたら



マロンが亡くなって3か月が経った。
毎月、23日を前にすると心が痛む。
同時に、自分のエゴについて感じずにはいられない。

何もしたくなくて、ある日、
DVDを借りてみた。

海外ドラマを見ているうちに、ふと、
英語の勉強になるなぁ、と気づく。

イギリス英語もアメリカ英語も、
ドラマから日常会話を知ることができる。

Sherlockはとてもよくできたドラマだった。
世界中で人気のわけがわかる。

見逃していた映画もたくさん見た。
その都度、映画を通して
心に響くメッセージが届いた。

映画に使われていた音楽も
気に入ったものをダウンロードした。

ああ、自分は芸術が好きだったのだ、と
改めて思い出す。

映画を見たり、
音楽を聴いたり、
舞台を鑑賞したり、
写真を撮ったり。

誰かの評価を気にせずに、
ただ楽しむことを忘れていたことに
気づかされる。

リラックスしているつもりで、
何時になったら何をしなくちゃ、と
予定を立てている自分に気づく。

「保証は何もない」。
スーパーバイザーが言ってくれた言葉だ。

夫婦関係も、
親子関係も、
恋人同士も、
友人関係も、
コンパニオン・アニマルも。

幸せが永遠に続くという保証は
どこにも、何もない。

なのに、人は「関係」を求め続ける。
なんて勇気がある動物なんだろう。

マロンを亡くしてからは、
人と関わるのはとても辛かった。

スーパーバイザーは
「たっぷり時間を取りなさい」、と
勧めてくれた。

そして、好きな人たちと距離を置くことは、
お互いを守るためだった。

悲嘆を奥底に抱えている人を
100%そのままの状態で
受け入れられる人は限られる。
悲嘆は瞬間的に伝染するからだ。

その瞬間、人はこう言う。
「元気をだしてね。」
「だいじょうぶ、乗り越えられるから。」

けれど、自分で悲劇を乗り越えた人たちは違う。
何も言わない。
黙って、ただ、そばにいて、
そして共感してくれる。

縁があって家に来た
4匹の猫たちは
決してマロンの代わりではない。
マロンの代わりは、どこにもいない。

それでも、時々涙する私のそばにきて
頬を流れる涙に興味を示して
「だいじょうぶ?」と心配してくれる。

マロンはこの子たちを
決していじめたりしなかった。
生きていたら、きっと、
迷惑そうな顔をしながらも
優しく接していただろう。

マロン、会ったら、その
ふかふかの体を
しっかりと抱きしめたい。






本日のメッセージ

【自己紹介】 中村久美恵 BBSH2011年卒業BHSプラクティショナー💖動物が大好きなエネルギーヒーラーです💛犬2匹猫30匹をお看取りした経験から、ペットロスのヒーリングサポートをしています。こんにちは、中村久美恵です^^ 今日もあなたが目覚めるメッセージ♡お届けします。 ...