2012/05/18

きっかけを思い出すこと

そもそも、これを始めたのはどうしてだっけ?
どんないきさつやきっかけがあったのだっけ?

こんな風に、ときどき思い出してみると、思わず初心に帰れます。そして、すっかり忘れていた出来事を思い出したりもします。瞑想はそれを楽にできるよう、助けてくれます。何かの雑誌で読みましたが、最近は企業の経営者の間でも瞑想が流行っているらしいですね。誰にも頼らず、未来を左右する決断を強いられる経営者には鋭い直感を磨く必要があるということでしょうか。

さて、私は読むこと・書くことが好きなのですが、あまりに当たり前すぎて、つい最近まで自分がそれらを「好き」なのだとは夢にも思っていませんでした。日常でブログを書いたり、FacebookやTwitterに書き込みをしたり、ホームページを作成したり、自分にとってはあまりに当たり前なことなわけです。そんなときに、第三者である友人の意見に驚かされました。

「紅美ちゃんは文章書くの上手だから、いいよね~。」
「ブログなんて、書くのが好きでないと続かないよ~!」

私って、文章書くのが上手なの?!
普通は続かないものなの?!

ブログは2004年くらいから始めました。途中、使用していたブログの会社経営が変わったり、「ええーい、もう、こんな古い自分とはおさらばだ!」となぜか思い立ったりして削除してしまったものもあります。けれど、ずっと続いているのは書くということ。ポエムや、日常の出来事、または瞑想で見たお話だったりと様々な内容ではありますが、書くということ自体、なぜか「止められない」のです。今朝の瞑想で、その原点を思い出しました。

小さな女の子が図書館の本棚と本棚の間に座りこんで本を読んでいます。小さいときの私です。ギリシャ神話、ローマ神話が大好きで、全巻読破しました。読むことが楽しいと心から思っていた頃です。それから、祖父が入院した病院へ両親に連れられてお見舞いに行ったシーンになりました。薄暗い廊下に、大人用のスリッパを履いた私の足音がパターン、パターン、と響いていたのがちょっと怖かったのを思い出します。そしてそれを作文に書いたのでした。

作文は見事に何とか賞をいただき、文集に記載されたのでした。私が初めて、自分のクリエイトした作品を他人に認めてもらった瞬間でした。しかし、そのときは周囲から褒められたものの、自分としては経験したこと、心に残ったことを素直に書いただけなので、なぜ褒められるのかがわかりませんでした。

瞑想がすごいのは、ここで終わらないところです。現在の大人の自分がみた視点から、この子供のころの出来事を感じることができるのです。実際、わたしは何とか賞をいただいた時の小さな自分を再度感じました。大人のまま子供の心を感じてわかったことは、実は、この時の私は本当は、とてもとても嬉しかったのだ、ということです。けれど、あまり喜ぶと周りのお友達から冷たくされるかもしれない、仲間はずれになるかもしれない、だから目立たないようにしよう。そういう防衛本能から、思いきり喜ぶことを止めてしまったのです。

目立つ事への恐怖というのは、団結や団体を重んじる日本人には多いのかもしれません。欧米のような個人主義の国では、また違うのでしょうね。

あの時の自分は、本当は、こんなに嬉しかったのだ。
それがわかったとき、なぜ自分が書くことを止めないのかがわかりました。そうして、それを続けてよいのだ、と快く自分を許すことができました。1日の中で、自分に「書く」という時間を与えてあげる。それは自分の創造性を発揮させて表に出してあげることにもなります。

ルイーズ・ヘイの本によると、女性の場合、創造性は内臓でいうと卵巣とも関係があります。(まさに、赤ちゃんを創造する臓器ですね!)現代女性は卵巣に問題を抱えている人が多いと思いますが、まさにこれではないでしょうか。

自分の人生において、創造性を発揮したいもの、ことを再度思い出す。大事なことです。





2012/05/15

カラスとかちがらす(2)

ヒチコック映画さながらの原っぱをよく見ると、歩道沿いにカラスが輪になって「ぎゃあ、ぎゃあ!」とけんかするように騒いでいます。上空ではかちがらすの夫婦が仲間を呼ぶように必死で鳴いていました。

「!」。 ピンときた私は犬と一緒に、カラスが集まっている場所へ猛ダッシュしました。だいたい、カラスがたくさんいるだけでも気持ち悪い風景なのに(カラスファンの方、ごめんなさい!)そのうえ、想像を絶するうるささ。騒いでいるカラスは犬と人間の登場で、一斉に飛び立ちました。

はたして、そこにあったのは、立派は羽が数本残った、かちがらすのヒナでした。ああ、やっぱり・・・。巣立ちまであと少しだったのに・・・。首や胴から出血していて、すでにこと切れていました。

「はあ~。」重いため息をついて、しゃがみました。ああ、どうしようもなかったね。まだ飛べなかったのにねえ。ごめんね。救ってあげられなかった親を恨むかい?でも、親もどうしようもなかったんだよ。どうか、許してね。

動かないヒナに心の中で許しをこい、これで怖い思いをすることのない世界に行けたことを祝福しました。でも、残念でなりません。ちいっくしょー!といくら悔やんでも、何もできないのです。がっかりしながらも、これ以上、ヒナがつつかれないように、手当たり次第に草をちぎって集め、上からそっとかけてあげました。緑色のお布団をかぶったヒナに、カラスは一羽も近づきませんでした。

親はすべてを知っていて、何でもできるかのように子どもは思います。少なくともそう信じているでしょう。でも、大人でも知らないことはあるし、できないことはあるのです。子どもの命を守れないときだってあります、動物も、人間も。ヒーラーとしてクライアント(患者)を救えない時だってあります。要は、この3次元の世界では「限界がある」ということです。これを受け入れるのは、ときに辛いことです。

電線には相変わらずカラスが真っ黒に並んで止まっており、近所の家の屋根、アンテナなどにも数羽ずつ止まって、うるさく鳴き続けていました。この時ほど、カラスが憎く見えたことはありません。私は完全にかちがらす派でした。こんな大勢で、たった2羽のかちがらすから大切なヒナを奪ったのか!許せん、卑怯者!

実際にはほんの数羽のカラスが巣を襲ったのかもしれません。でも、その時に多くのカラスがいたために、私は真実ではなく、状況から思い込みをしました。同時に、自分の人生で「裏切られた」経験が関係していることも、頭のどこかで自覚していました。小さなこどもが経験する、大人からの辛い裏切り。それは例えば、隠しておいた宝箱をゴミと勘違いされて捨てられるようなものです。

怒りにメラメラと燃える私を、愛犬は「どうしたの?」という顔で見上げていました。こんな時、動物と一緒にいると本当に助けられます。私は愛犬の不思議そうに私を見上げる目を見て、地に足がつきました。怒ることを「頭に血が上る」と表現しますが、まさに、エネルギーも上に上ります。大地から離れそうになったとき、善悪など判断しない犬が、いったい私がどうしたのか不思議そうに見上げたのです。




カラスとかちがらす(1)

5月に入って、初夏の陽気が続いています。犬の散歩のときに、時おり、電信柱の一番上のほうを見上げると、かちがらすの大きな巣が見えます。高い高い場所に、寒い冬から夫婦で小枝を探しながら、一本一本重ねて作ってきた立派な巣。いったい、何回巣を往復したことでしょう。

巣作りの間、ときどきカラスがやってきて、せっかく重ねていた枝をポン!ポン!と地面に捨ててしまいます。私が見たとき、かちがらす夫婦は抗議の声をあげていたのですが、大きなカラスにはかないません。残念ながら、いじわる(?)されるままでした。

さて、かちがらすは5月になると巣立ちの時期です。散歩道にあるその巣の中に、いくつの卵があって、何匹のひながかえったのかはわかりませんが、親が何度も外出しているところを見ると、きっと餌を運んであげていたのでしょう。そんなある日・・・。

犬と朝の散歩ルートを歩き終えて、巣がある原っぱへ向かっていると、やけに大きなカラスの鳴き声が聞こえます。しかも、うるさい!何だろうと思って足早に行ってみると、なんと、電線にびっしりとカラスがとまっているではありませんか。まるでヒチコック(監督)の(映画)「鳥」のようでした。



2012/05/13

手放す

最近、ルイーズ・ヘイがフェイスブックで書いていました、「許すということは、手放すということです・・・」。ちょうど、「許せん~!」という事柄を抱えていた私。許す=手放す、という方程式を自分の中に取り込んでみることにしました。

どう考えても許せん、ああでもない、こうでもない、と頭の中で忙しい感情の堂々めぐりが行われます。許せない、という怒りをしっかり感じることが、まず難しいことに気づきました。そこで、許せない~!の一文字だけを感じることにしました。「んん~!(怒)」・・・。ふと、「何でなんだろう?」という気持ちに変わりました。

認めてほしい気持ち、他人や家族、友人たちからの評価、自己価値と自信。これらが混ざり合いながら、怒り(結果)の原因になっていたことがわかってきました。

手放すには、「何を手放せばいいのか?」がわからないと、できませんよね。だから、それを明らかにすることは、とても大事。また、あの人が悪い、会社が悪い、上司が、部下が、親が・・・と言い続けて(思い続けて)いても、自分の気持ちがスッキリすることはありません。手放す=流れていくままにする、とも言えます。流れが滞っていたなら、何が流れをせき止めているのかを知る必要があります。一人でもいいし、セラピストやカウンセラー、仲の良い友人と一緒でもよいのです。

流れをせき止めている原因がわかったら、3回、同じことを繰り返してお願いします。例えば、「私は○○を許します」、「私は○○への怒りを手放します」、「宇宙よ、私が許せるように助けて」など、自分が言いやすい文言で構いません。再び怒りが湧いてきたら、また同じことを繰り返してお願いします。相手は神様でも、天でも、イエス様でも、宇宙でも、あなたが好きなものを選べます。3回以上繰り返しても構いません。

しばらくすると、自分がとても小さなことで怒っていたかのように感じてきます。どうでもよくなってくるんです。それは、あなたが「流れに身を任せることができた」という合図です。きっと、心の中は穏やかな海面のようになっていることでしょう。




2012/05/06

のら猫と私(2)

まる3日間、ベランダに置いた犬小屋でじっとうずくまっていたのら猫は、4日目の朝を迎えました。犬と散歩へ出かける前に様子を見ると、こちらを見つめています。私には「ごはん(はあるの?)」と聞こえたようでした。あるよ。まあ、3日間じっとしているし、散歩から帰ってきてからでもいいだろう。そう思って、犬と散歩にでかけました。

帰ってくると、猫の姿がありませんでした。ちょっと、心が痛みました。あのとき、先にご飯をあげていればよかったな。帰ってくるかな・・・。4日目ということで、何となく、目に見えない絆が私たちの間に出来上がっているのを感じていたので、小屋に猫が見えないことが淋しく感じました。数秘術では3という数字が基本をつくり、4という数字でそれがしっかりしたものとなる、と聞いたことがあります。

手足は小枝のようで、あばらがはっきりとわかり、腰の骨がはっきり浮き出ていた猫。どこへ行ったのだろう?私はいろいろ考えました。
3日目の午後、小屋の敷布に、エッセンシャルオイルを垂らしたけど、あの匂いが嫌だったかな?(猫がウイルス性の病気を持っていそうだと思ったので、菌やウイルスによいとされるエッセンシャルオイルを数滴、布にたらしていました。)
それとも、ここは犬の匂いがするから、ゆっくりしていられない、と思ったのかな?
犬が庭に植えた麦若葉を食べたいといったとき、猫がいたから私が止めたけど、それに気付いてのことかな?
あれこれ思いめぐらしても、理由がわかるはずもありませんでした。

夜になっても、猫はもどってきませんでした。体調は戻ったのかな。でも、まだ本当に良くなったようには見えなかったな。また来てくれるといいな。ごはん、準備しているんだけど。いろんなことを思いながら、なかなか眠れませんでした。すると、突然、外で聞きなれない音がしました。すぐに窓を開けると、あの猫が小屋の前においたボウルの水をぴちょぴちょと飲んでいました。

「良かった、帰ってきたねえ。だいじょうぶ?いま、ごはんもってこようね。」そう言って私は猫のためによけておいた鶏肉の一部を、小さなお皿にいれて持っていきました。ところが、猫は食いつくどころか、「ん?」と見ただけで、食べませんでした。それでも安心しました。
どこかで食べてきたのかもしれない。(それならそれでよし!)
体調がいま一つなのかもしれない。(朝までに食べるかも)
まあ、元気でいてくれてよかった、とホッとして、エッセンシャルオイルの香りが嫌だったわけではなかったのだな、とも思いました。

翌朝、5日目、猫は初めてベランダにおいたベンチの上にあがっていました。窓のすぐそばなので、人や犬の気配がとてもよくわかる場所です。窓を開けても逃げません。3日目までは「シャー!」と怒っていたのに・・・何か通じ合っているような気がして、嬉しい気持ちでいっぱいでした。今度はすぐに朝ごはんをあげました。おいしそうに食べて、洗顔すると、しばらく辺りの様子をうかがってから出かけて行きました。それ以降、猫はもどっていません。

猫の行動範囲は非常に広く、オスは特に遠くまで遠征します。のらであることは可哀想かもしれないけれど、自由があります。のら猫の寿命は一般的に短いけれど、ときどき、優しい人間とおいしいご飯にありついたりしながら、勝手気ままに生きていくのでしょう。

のら猫との別れを以前ほど悲しく感じなかったのは、並行して、もっともっと悲しい出来事があったからでした・・・。


2012/05/03

受け取る

「かんたんです、受け取るなんて。」って思います?いやいや、なかなかそうもいかないんですよ。褒め言葉やお礼の品、旅先からのお土産や親切な申し出。自分にとって受け取りやすいものと、そうでないものがありませんか?

ある日、手土産をもってあるお宅へうかがったことがありました。そのおうちの方が「これはこれは、ありがとうございます。」とおっしゃってくださったのですが、その言い方にたっぷりの「大げさ感」(無理している感)を感じてしまい、素直に受け取る(喜ぶ)ことができなかったことがあります。

相手によるのか、モノによるのか、見えないものによるのか。何が自分の中の受け取ることへの抵抗を生むのでしょうか。わたしの例では、自分の理想どおりに喜んでもらえなかったことがポイントになっています。確かに相手は喜んでくれたのだけれど、「私の理想」どおりに表現したわけではなかったわけです。

相手をどのように「受け取る」かというのは、自分の内面に抱えているもの、経験してきたもの、その時の精神状態等によって変わりますが、基本的に、受け取るのは心地良いことです。(お金、地位、友人との会話、自分の好みのモノなど)

しかし、どうしても、受け取れないものもあるでしょう。それも大事です。何でもかんでも受け入れなければならないわけではありません。ただ、どうしても受け取れないとき、その理由を自分が明確に知っておくことは大事なことです。

受け取れない理由を俯瞰的(ふかんてき)に知っておくと、他人と自分の境界線を明確にすることができます。簡単にいうと、「ここまではOK(許す)、でもここから先はダメ!」ということです。

受け取ることというのは、「受け取ることを自分に許す」こと。これが健康的にできれば、相手とのより良い人間関係を築いていけることは間違いありません。

2012/05/02

のら猫と私(1)

最近、雨が多いですね。つい先日も、小雨が降る中、犬と朝の散歩に出かけました。帰りがけ、雨足が強くなってきて、早足で田んぼのあぜ道を通り抜けようとしたら、犬が止まって動かなくなってしまいました。促しても、何かを前足でつかまえようとしています。かえるか何かかな?と思って、のぞきこんでみると・・・何と、雨の中の草むらに、小さく丸くなった猫がいました。

猫は非常に敏捷(びんしょう)で、用心深い生き物です。犬が至近距離にいるのに動かない、というのはよほどのことです。具合が悪いのか、あるいは怪我をしているのかな、と思い、顔を近づけると「シャー!」と怒ります。とりあえず、犬がいてはダメだろう、と思っていったん帰ることにしました。

犬に朝ごはんをあげてから、自分ひとりであぜ道へ引き返しました。いくら草むらにいるといっても、猫はすでに全身びっしょりになっていました。傘をさしかけると「シャー!」。しかし、動く気配はありません。気になりながらも、家に帰りました。

雨足は変わらず、雨は降り続いていました。3回目でダメならあきらめて帰ってこよう、そう思って、タオル片手にまた出かけました。2回目に見に行ったときに、目ヤニ、汚れ、鼻づまり等が見て取れたので、これで最後にしようと思っていました。犬に移る病気を持っているかもしれないし、第一、家の中で猫は(いまは)飼えないな。そう考えていました。

あぜ道につくと、猫は相変わらず「シャー!」と怒りました。傘も人間も怖かったことでしょう。雨の中、性別もわからない猫に話しかけました。「どうしてこんなところで濡れてるの?具合悪いのねえ。」そして、よく見ると、家の近所で見かけたことがある猫だと気づきました。首輪はしていませんでした。私は、「誰かを頼って生きてもいいんだよ。信じられる人間もいるよ。良かったら、うちにおいで。ここよりマシだし、濡れないよ。」本当に、こう、猫に話しかけました。(誰かが見ていたら、怪しい人間です!)

タオルを背中にかけると、温かさに気付いたようですが(オイルヒーターで温めておきました)やっぱり、「シャー!」と言って2mほど先の木の下に逃げてしまいました。見てみると、そこでトイレをしています。そして、お腹がゆるいこともわかりました。寄生虫かなにかがいるのかもしれません。私はあきらめて、帰ることにしました。

人間もそうですが、「受け取る準備ができていない人」にどれだけ与えようとしても、受け取らないものです。人の親切、優しい言葉、褒め言葉などはもちろん、物質的に何かをもらっても、すぐお返しをするか、いらないと言うでしょう。どんなに親切心から提供しても、受け取れない人や動物はいるものです。それはあなたや私が悪いということでは全くありません。

さて、家に帰った私は裏庭に植えたトマトやハーブを見て回りました。幸い、雨足が弱くなってきました。雨がやんだら、土が柔らかいうちに雑草をとろう。そんなことを考えつつ、今度は家の反対側に植えてある野菜や花を見て回りました。良かったねえ、雨がたくさん降って。心の中で花たちに声をかけ、野菜に水をやる手間がはぶけたことを喜びました。そして、ベランダに置いてある犬小屋(私の犬は最初から、なぜかここには入りません)をふと見ると・・・なんと、あぜ道で見たあの猫がいるではありませんか!

「ええ?お前、いつの間にここに来たの??」私は本当に驚きました。しかも、どうして私がここに住んでいるのを知っている?!確かに「うちにおいで」と声はかけたけど、本当に、しかもこんなに早く猫が来るとは夢にも思っていなかったのです。

やがて雨はやみ、私は自転車をすっ飛ばして猫のごはんを買いに行きました。長くいるわけでもないだろうから、数回分のごはんがあればいいか。そう思って、少しだけ買いました。帰宅して、小さいお皿にやわらかいご飯を入れて与えました。猫と目があったときに、目の焦点が合っているのかいないのか、わかりにくいことに気付きました。栄養失調かな?と想像しつつ、そっとお皿を置きました。

用心深い顔をしながら、皿に興味を示さなかった猫はやがて、お皿の中から漂う匂いに気付くと、急いで食べ始めました。「よかった、よかった。たくさん食べて、強くなれ。強くなれば、病気も治るよ。」と声をかけました。やがてお皿は空になり、猫は2回おかわりをしてごはんを食べました。

作り話ではありません。本当にあった出来事なのです。チャトランやモコちゃんが私の言葉を理解していたのは、飼い猫だからと思っていました。でも、どうやらそうではないらしい。人間に飼われていなくても、たとえのら猫でも、心のこもった人間の言葉を理解するのだろうか・・・。信じられないような、信じたいような気持ちでした。


本日のメッセージ

【自己紹介】 中村久美恵 BBSH2011年卒業BHSプラクティショナー💖動物が大好きなエネルギーヒーラーです💛犬2匹猫30匹をお看取りした経験から、ペットロスのヒーリングサポートをしています。こんにちは、中村久美恵です^^ 今日もあなたが目覚めるメッセージ♡お届けします。 ...